かわる
6月17日
よさこいが終わり、札幌恒例の北海道神宮際いわゆる札幌祭りが15日16日で終わった。
この間の天気は、いずれも肌寒く、すかっとした青空は見えなかった。
この後は、7月20日からだと思うが、札幌夏祭りで大通公園のビヤガーデンがお盆まで続く。その間は、特に大きなイベントの予定はないと思うのだが。
よさこいは、動員数では昨年よりも減ったようで、豚インフルエンザの影響ばかりではなく天気や景気などいろんなところの影響を受け、見に来る人の数が減っているのかと思う。
結局町に出かけていても、一度としてよさこいは見ていない。
朝日新聞の記事に、こんなのがあった。
猫ちゃんの糞の始末をしているとき、背中にあるテレビから死刑囚3人の執行のニュース
が流れてきた。
猫ちゃんの糞の始末という日常の繰り返される当たり前のような中に、死刑執行という出
来事がそれも当たり前のように起きていることに異常とか、悲しみとかと感じる間でもないまま、当たり前の暮らしのその当たり前の場所に入り込んでいるのだと書いていた。
片や、17年間の刑務所で暮らした時間を返して欲しい。
裁判所の裁判官、当時追い詰めでっちあげを作り上げた警察そして検察の執行官、返し
てくれ。何で、そのでっち上げた犯罪が罰することなく、そのまま何もなかったかのように正当化されるのか、裁判で取り上げ、帰らない時間を訴えていた。
マスメディアは、それをまた正々堂々と、自らの17年前の報道記事に対する一言の弁明も省察も犯罪をも省みられることなく、これぞとばかり、われこそが正義の証とばかりに書
きたて訴えている構図もまた、報道の正義こそ自ら反省すべきではないのかと思うが。
やらせで報道番組を捏造していたとか、株のインサイダー取引を知りえた材料を犯罪に使ったもの、オームのために殺人に繋がる事実を流していた報道、そのたびにメディアの使命としての再生を誓っていた。結局は、売れればいい、あらかじめ持っている印象に都合の良い出来事だけを寄せ集めたことがこれらの犯罪を形作っていることの転換になってない。
例えば、カレー事件の確定した被告人も現在も無罪を言い切っている。
状況証拠以外物的証拠がない中で、犯人の問題はないのか。
冤罪が作り出されていく構図は、小説でも取り上げている沖縄返還時の公文書の存在。
小さな新聞記事でも、裁判の報道を取り上げられてもいた。
何もしないことが犯罪になる。
不作為の行為。見ていて聞いていて何も行動を起こさないことは、ありふれた一言ではか
たずけられないが、知らないこと事態が犯罪になるように最近見られること。
高級官僚が、公文書の正式手続きを取らずに許認可を行使したことが犯罪だというのであれば、依頼したもの、指示したもの、管理監督すべき行政権限行使に当たっての範囲とか、指示により作成したものの犯罪など成立することになるのか考えてしまうことだが。
日常生活までもが法律で定められている中で、法律による行政の裁量という矛盾する言葉もまたある。とにかく法律が出来てから、日本の行政は動き出す。結果は、行政裁量という運用の世界でこれもまた、細かく定め規制し監督し制約して自らの監督権限を拡大していく行政のあり方はそろそろ変えていかない限り、肥大化と不作為の犯罪が広がるのではないのか。
結局、何もしないと何事も起きないし問われることもない。
何かを始めから、結果責任が発生し、そのための成果がまた原因となるのであれば、何もしなければいわれることもなく問われることもなく、決められたことの中でやりきればそれで終わってしまうような出来事は、そろそろ変えていかないとだめになる。
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